あれから2週間2011年03月26日 09時45分40秒

 震災発生からの一週間は、目の前で起きている事実を受け入れることができず、おろおろ慌てふためいていた。今でもどこかに、これは夢ではないのかと思っている自分がいる。ここ数日、少し落ち着きを取り戻しつつあるとは言え、なお心が沈んだままである。

 東京電力福島第一原子力発電所のことでは、事故発生当初からテレビにかじりつきながら、最悪の事態になることを想像して、緊張し続けた。放射性物質が放出され、拡散し、次々と避難地域が拡大して行くにつれ、そんなことは今まで考えたこともなかったのに、日本との行く末が心配になった。自分は老いていく者として我慢ができても、若い人たち、子供たち、これから生まれてくる赤ちゃん、この人たちの未来は私が若いときに考えていた未来とは全く異なるものになるのではないか。そう考えただけでも、心はますます暗くなるばかりであった。

 毎日、各地で測定された放射線量が発表されている。水道水からも放射性ヨウ素が既定値を超えて検出されているところもある。普段なら大問題で大騒ぎになるであろうに、意外なほどに人々は冷静に受け止めているように見える。なぜだろう。政府は[すぐには健康に影響ない。であるけれども念のため、あらかじめ○○の処置をお願いする。」と繰り返している。

 昨夜、栃木に住んでいる友人から電話があった。彼は仕事がら放射線管理者の資格を持っていて、実験室の放射線を定期的に測定しているのだそうだ。その彼が、こう言って驚いていた。「今は、実験室の中よりも、外の方が放射線レベルが高くておよそ1マイクロシーベルトなんだよ。」
 今や、日本人は1マイクロシーベル程度では驚きもしなくなった。むしろ「ああ、良かったね。少なくて。」とさえ思っているのではないか。

 戦争の時、人々が戦争を日常のものとしていつの間にか受け入れていったのはなぜだろうと不思議に思ったことがあった。今の日本の状況と同じだったのだ。最初はちょっとした小さな放射性物質の漏洩でも大騒ぎし、非難をしていた人たちが、今やおとなしく静かに日常を送っている。おそらく心の中にはこんな思いがあるのかも知れない。「東北の被災者たちのことを考えたら、自分たちはまだ恵まれている。我慢しなければ。」

 敗戦から66年経っても日本人の感性がそんなに変わるものではないのだろう。このことの評価は両面に分かれる。人々と苦しみを分かち合おうとする人間としてのすばらしさ。ひどい状況に陥っても忍耐しながら、解決の時を待ち続ける我慢強さ、という美点。一方、真の問題から目をそらしてしまい、結局責任の所在がうやむやにされていく言い訳にされてしまう部分もある。

 戦後、「一億総懺悔」と言った人がいたそうだ。今回の事故のことも、「みんな悪かったのだ」と言って、済ますのではなく、いったい何が問題だったのか、徹底的に考えるべきではないだろうか。電力会社や国が悪いと、まるで自分には責任がないかのように言い捨ててはならない。私たちは何かをごまかしてきたのではないか。電力会社や政府が強調する「安全神話」をどこかで疑っていながら、目の前の便利な生活を追い求めることを優先し、そのつけを東北の田舎町に押しつけていた、そう面があったことを誰が否定できるだろうか。

 今日の新聞で、原子炉1〜3号機ともに、配管のどこかに亀裂が発生している可能性があると報じている。燃料棒が破損し、高濃度の放射性物質を含んだ冷却水がそこから漏れだしているらしい。中央制御室までは電気が通じたらしいが、冷却ポンプを動かすまではかなりの困難が予想される。
 原子力発電所を稼働させる限り、作業員が被曝することは絶対に避けられない。そのような事実は闇から闇に葬られ、ほとんど表に出てこない。おかしなことだ。どうして隠すのだろう。どんなリスクであれ、表に出して、その上で「それでも原子力発電所が必要だ」と言うのか、それとも別の選択肢を選ぶのか、そのような作業を私たちは怠ってきたのではないか。

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