現在の音 ― 2005年11月06日 14時13分40秒
このように胸突き八丁の坂を越えてたどり着いたDACシステムの音はどうなったのだろうか。
以前のシステムとは全く異なる音質である。スピーカーの存在を全く意識させない。高音がどうのとか、低音がどうのという分析はもう必要がない。CDに録音されている音をそのままさらけだしていくという印象だ。良くも悪くもすべてが聞こえると言ったら言い過ぎだろうか。オーディオの到達点とはこういうことなのだろうかと考えた。いい音で感動したいという次元はとうにに超えてしまった。今はむしろ、いかにして良い演奏に巡り会い、感動するかである。スピーカーから出てくる音が問題なのではなく、演奏が問題となる。考えてみれば、当然と言えば当然のことだ。だから、音について分析的に書くことは、もはや意味を感じられなくなってしまった。
もちろん、すべて完璧な音になった訳ではない。エージングが不足している状態では、故障かと思うくらい、高音域で歪むことがあった。ソプラノなど聞いていられない。オーケストラを聞いていても、どこかざらついていて落ち着いて聞けなかった。絹のような滑らかさではなく、どこかわずかにささくれ立っていた。それが気になってしまい、欲求不満が高まったりした。一瞬、これは失敗かとも思った。
ところが、エージングが進むと、ソプラノが俄然滑らかになって来て、歪み感がだいぶとれてきた。もちろん、今日の状態でもまだ完全とは言えないが、それでも今後もっと良くなるだろうという期待をもっている。
本当に短期間で、よくもここまで来たものだ。
以前のシステムとは全く異なる音質である。スピーカーの存在を全く意識させない。高音がどうのとか、低音がどうのという分析はもう必要がない。CDに録音されている音をそのままさらけだしていくという印象だ。良くも悪くもすべてが聞こえると言ったら言い過ぎだろうか。オーディオの到達点とはこういうことなのだろうかと考えた。いい音で感動したいという次元はとうにに超えてしまった。今はむしろ、いかにして良い演奏に巡り会い、感動するかである。スピーカーから出てくる音が問題なのではなく、演奏が問題となる。考えてみれば、当然と言えば当然のことだ。だから、音について分析的に書くことは、もはや意味を感じられなくなってしまった。
もちろん、すべて完璧な音になった訳ではない。エージングが不足している状態では、故障かと思うくらい、高音域で歪むことがあった。ソプラノなど聞いていられない。オーケストラを聞いていても、どこかざらついていて落ち着いて聞けなかった。絹のような滑らかさではなく、どこかわずかにささくれ立っていた。それが気になってしまい、欲求不満が高まったりした。一瞬、これは失敗かとも思った。
ところが、エージングが進むと、ソプラノが俄然滑らかになって来て、歪み感がだいぶとれてきた。もちろん、今日の状態でもまだ完全とは言えないが、それでも今後もっと良くなるだろうという期待をもっている。
本当に短期間で、よくもここまで来たものだ。
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