福島第一原発事故2011年04月03日 21時39分55秒

 この事故に関連してネットを検索したらある方がこんなことを発言していた。「自動車事故より原発は安全だ。」なぜなら、「自動車による死者は年間5000人で、日本の原発事故の死者は、これまでゼロ」だからそうである。すごい論理である。頭の良い人が書いたらしくて、頭の悪い私には理解できないままだ。理解出来ないのは多分私の責任なのだろう。
 それでも、ない頭を絞っていろいろなことを考えた。ブログに書くのはためらわれたが、こんな世の中だからこそ書かずにおられない気がしてきた。

 福島の事故が起きてから「反原発」や「脱原発」の意見は日増しに高まってきている。「原発推進派」の勢いは見る影もない。一方、今の原発の安全性を高めながら使い続けるべきだという「現状維持派」のかたも当然おられる。
 
 私の立場を公にしないまま議論をすすめるのはフェアではないだろう。正直に言えば、私はこれまで「あいまいな反原発のような者派」であった。つまり心のなかでは原発に不安を感じながら、明確な意思表示もせず、原子力によって発電された電気エネルギーの恩恵を積極的に享受してきたということである。たとえば過去に原発で事故のことが報道されると、すぐに第三者的な立場に立ち、電力会社の隠蔽体質を批判したり、「原発は怖いね」とひとこと言うばかりの、「罪のない電力消費者」を演じてきたのである。悪いのは国の原子力政策であり電力会社であって、自分たちは何も悪くない、そう思っていた。おそらく多くの方も同じようなことではなかっただろうか。
 
 このような態度は、電力を消費する側にとっては極めて居心地がよく、原発問題から目を背けるための良い口実となったのも事実である。しかし今回の事故のことをきっかけに、これまでのあいまいな態度を改めなければならないと思うようになった。

 では、どのようなスタンスに立つべきなのか。従来の議論では極端に言えば「反原発または脱原発派」と「原発容認派」の二つに分ければことが足りた。しかし、今回の事故とのことを考えていうくちに、原発の問題を単純に二つの意見に分けて考えることは無理があるように思えてきた。

 こういうことだ。原発で発電された電力を消費してきた私たちは原子力発電所のことについてどれだけ知っていただろうか。専門家がしきりに「日本の原発は世界一安全です」と言ってきたのを、鵜呑みにしていつの間にか「安全神話」にあぐらをかき、何も知ろうとしなかったのが本当ではないのか。だから一旦今回のような事故が起きると、「政府や電力会社にだまされた」と言っいうような極端な反応に終始してしまう。中には犯人探しにやっきになったり、中傷まがいのことや、電力会社の寮にいやがらせをする人まで現れる始末である。これは明らかに何かがおかしい。

 何が間違っていたのか。原発は人間が作ったものだからどんなに対策を施したとしても重大事故を起こす確率はゼロにはならない。技術者なら、当然わきまえている設計思想である。「想定外」の千年に一度の地震と津波であろうが、事故は起こるべくして起きたのである。そもそも、原発設計仕様書には事故発生確率をゼロにしろと書かれていないし、もしそんな仕様書を書く技術者がいたら笑われるだけである。

 つまり原発であろうが車であろうが、事故が起きる確率はゼロではない。すべてはそこから出発すべきである。それ以外のところにスタートラインを設けようとするなら、それは誤りである。そしてまさに私たちはこれまで誤ったスタートラインに立って議論してきたのではないか。つまり「絶対に安全である」というスタートラインである。

 ついでに言っておけば、専門家たちは今回の事故を「想定外」という言葉で説明しようとしているけれども、非常に違和感を感じる。言い方が間違っているのである。今回のような津波に襲われることを想定していなかった。それは事実であろう。それが問題ではない。問題なのは、「この原発はここまでのリスクを想定して設計しています。しかしその想定を超えた事態が起これば、重大事故が起こる可能性があります」と説明してこなかったことである。「絶対安全神話」を持ち出して、原発設置に懐疑的な人たちを説得してきたそのつけが今まわってきたのだ。「想定外」という摩訶不思議な言葉で責任をあいまいにするのではなく、素直にその非を認めるというのが技術者のモラルではないだろうか。

 「絶対安全」というところから出発すると物事が非常に単純で分かりやすくなるというメリットがある。事故は起こらないはずだから、シリアスな事故が起きたときのことを想定する必要がない。重大事故が起きたときのための計画や準備をする必要がない。つまり極めてコストが安くなる。それに何よりも、消費者は安心できるし、原発を受け入れる地元の方々も安心出来る。こんなすばらしいことはない。

 しかしこの論理が破綻していたことは、今回の事故で誰の目にも明らかになった。ならば、私たちが取るべき選択肢はひとつしかない。正しいスタートラインに立つことだ。原発事故は起こりうるという前提にたって議論しなければならない。原発を設置すること、運転すること、保守すること、廃炉のコスト、その後の処理費用、使用済燃料の処分、被曝のリスク、事故が起きたときの被害、あらゆるリスクを全部オープンにして、それを消費者である私たちがまず理解することから始まる。これらのリスクを理解した上で、原発の是非について決断するというのが、私たちの責任ではなかったのか。残念なことだが、少なくとも私はこのような責任ある態度を回避していたと言わざるをえない。

 既存の原発をすぐに止めることは現実的ではない。これからも運転するしかないだろう。でも今まで通りというわけにはいかない。重大事故が起こる確率はゼロではない。不幸なことに、今回の事故でそのことが証明されたのだから、誰も否定することはできない。千年に一度であろうが一万年に一度であろうが、日本の原子力史約40年という比較的短い期間に事故が起きたのだから、決して小さな確率ではなかったはずだ。重大事故が起きることを想定して、そのための準備をするしかない。膨大なコストがかかるだろう。電気料金も高くなることも避けられない。これらのリスクを引き受けてでも原子力発電を推進しようとするものはどれだけいるだろうか。そもそも誰かが言っていたが、経営として投資に見合うリターンが得られるのかどうかはなはだ疑問である。

 考えたくないことかもしれない。しかし、私たちは否応なくそのような生活スタイルを選択していたのである。嫌なことから目をそむけることはできないのだと、今回の事故が教えてくれている。